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阿波人形浄瑠璃芝居  
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人形師
 
駒蔵(駒三)
駒蔵(駒三) 作
半道頭(玄蕃) 11.5cm
●阿波人形の元祖、しかし享保の人ではない?
 伝承によると阿波人形の元祖はこの駒蔵という事になっている。
 『徳島県史』には享保頃の人となっている。この説は、天狗久が「彼は約250年位前の人だと聞いている」と言ったのを逆算して享保という年代を割り出したもので何等の根拠もない。彼の頭の造形、文楽人形のカラクリの発達の年代など考えると享保までは遡らない宝暦、明和の時代に制作をした人形師とするのが妥当である。
 淡路に生まれ仏師であったが、後に人形遣となり阿波に移り、更に人形師となり現在の徳島市助任本町大岡馬之瀬に住みついていたという。故に一般に「馬之瀬駒蔵」と言う。

●仏師の彫り
 現在約10個の頭が発見されているが、在銘のものは一つも発見されていない。
 彼の作品は初め無曲であったが、後に目の左右の動き、切りアゴ、口開きを見る様になった。仏師であった為、その作品は能く材質(主として桐)の木目を生かした素晴らしい作品が多い。なお頭の彫を見ると、徳川時代の仏師がよく使用した遂条法による条痕が明確に存在しているので、彼が仏師であった事は全く疑う余地はなく、特に下限瞼より鼻梁にかけての線、耳朶の彫りによくその特徴が出ている。

●駒蔵の在世期:宝暦明和の頃では?
 彼の在世期間について一考してみたい。阿波の人形座の使用していた頭は、古い時代は京都大阪の人形師の作品を購入していたもののようで、今でも大阪の大江あるいは笹屋の人形師達の作品が数多く発見されているのはそれを裏付けるものである。人形で初めて口が開く様になったのは、享保12年(1727)摂津国長柄之人柱の入鹿の人形であり、目の動く工夫は享保15年(1730)『楠正成軍法実録』和田七の人形であり、三人遣いの始まりは享保19年(1734)『蘆屋道満大内鑑』からであり、眉の動く工夫は、元文元年(1736)2月『赤松円心緑陣幕』の本間山城入道の人形が初めてである。
 天狗久が石井氏所蔵の人形頭の修理の際、その箱書きに「阿波国人形師元祖名東郡大岡浦馬瀬住駒蔵作 淡路上村源之丞座 寛政年間前後使用頭 徳島県名東郡国府町和田住天狗久事吉岡久吉修理ス 昭和拾年五月」というのがある。
 斎藤清次郎は、駒蔵の頭の形から見て、また前記の箱書きの資料から考えて天明寛政の人ではないと言っている。
 元文元年(1736)3月『和田合戦女舞鶴』の板額の人形で、当時の在来の人形の約2倍大の人形頭を初めて使用し、この人形が現在文楽で使用されている人形の大きさの基準となった初めであると言われている。(斎藤清次郎氏は、古浄瑠璃時代に文楽とは全く無関係に発達した人形で、現在の文楽人形に近い大きさの頭を発見されている。)
 駒蔵作と伝えられる頭の造形、文楽人形のカラクリの発達の年代、及び以上の参考事項により、駒蔵は鳴州よりは古い時代の人には間違いないが、享保までは遡らない宝暦、明和の時代に制作をした人形師とするのが妥当である。

●「切りアゴ=駒蔵」は誤り
 徳島県下では切りアゴ(徳島県下では一般にアゴオチと言っているがアゴオチはガブの様にアゴ全体がスッと下に落ちるものであって、口を開く為のものは切りアゴと言った方が正しいと思う)は駒蔵の発案の様に伝承され、切りアゴの頭はすぐ駒蔵あるいは馬之瀬という概念が一部にあり、また根拠もなく、古いものを駒蔵作等と称するものがあり混乱の傾向にあるが、切りアゴの頭にしても決して駒蔵だけのものではなく、駿府の人形師長兵衛の作品にもあり、また筆者は作者不明の切りアゴの作品を発見しているので、この概念は一掃したいものである。
 いずれにしても駒蔵は阿波人形師の祖である事には異論はなく、素晴らしい作品を残している点でも敬意を表したい。

(以上の解説は、『松茂町歴史民俗資料館・人形浄瑠璃芝居資料館 図録 ―人形浄瑠璃関係資料―』の中西仁智雄氏の解説を一部修正して紹介。)
 
万芳 
 享保(1716〜36)のころの人。板野郡堀江村で制作していた。在銘のものは1個しか発見されていない。それを見ると口の開き具合などに苦心のあとがみられる。作り方を見ると明和・安永年間(1764〜1781)ころでないかと言う説もある。
 
利貞
 享保(1716〜36)のころの人で、住所はわからない。署名と制作年月の入った頭が1個発見され、天狗久が修理したと言われているが、現在その頭の所在は不明である。古くても宝暦年間(1751〜64)のころと言う人もある。
 
鳴州
鳴州 作
丸目頭(宗任) 14.0cm
 徳島に残る諸説は、彼を寛政・享和(1789〜1803)頃の人と伝えるが、天狗久が石井真之助氏に出した書簡には、「鳴州は文化3年(1807)に故人となったと伝え聞いている」と書いてあるので、人形制作年齢より考え、寛保(1741〜44)時代の前後に生まれ、安永(1772〜81)頃より人形制作を続けたのではないかと思われる。
 鳴門市撫養町に生まれ牢の浜(現在の徳島市藍場町)で人形制作に従事していたと言う。もと画家であったと言わるが、画家としての作品は発見されていない。人形の頭の中にある彼の銘は極めて達筆であってさすがと思わせられる。使用材は檜である。作品は、徳島で6個、東京八王子市に1個、滋賀県に1個発見されている。

(『松茂町歴史民俗資料館・人形浄瑠璃芝居資料館 図録 ―人形浄瑠璃関係資料―』の中西仁智雄氏の解説を一部修正して紹介。)
 
卯之助
 鳴州の甥。寛政・享和年間(1789〜1804)のころの人。鳴州に従い牢の浜で制作していたとも。徳島市古物町で制作していたが、30余歳で没したとも言われている。
 作品は悪婆が1個発見されたとして、久米惣七氏の本(『阿波の人形師と人形芝居総覧』)に写真が載っているが、角目(口あき、4寸4分)1個という記録もある。
 
近蔵
 鳴州の甥で、天明年間(1781〜89)のころの人と言われているが、証拠はない。男頭が1個発見されているだけである。初代天狗久はその作品を修理し、非常に良くできた頭だとほめていた。
 
源兵衛
 文政年間(1818〜30)のころの人で、徳島市佐古大谷で制作していた。佐兵衛の師匠で作品は天理参考館に武者頭がある。目と眉、口の動く三曲頭である。県指定の有形文化財の中にも、源兵衛の作と言われる頭があるが、それに対しては異説が出ており、今後の研究が待たれる。
 
善平
 善兵衛とも書き、文政(1818〜30)のころの人で、徳島市蔵本町で制作していた。目の動く悪婆と娘頭1個が発見されている。天狗久もよい頭があるとほめていたと言われている。
 
福山佐兵衛
福山佐兵衛 作
世話下女頭(お福) 10.5.cm
 徳島県名東郡岩延に生まれ、嘉永6年(1853)5月17日死去。一時、徳島市佐古の源兵衛の家で制作していたが、後に徳島市国府町和田に移り福山佐兵衛・横山佐兵衛・清水浜蔵等の名を使っている。人形忠の父親である。仏師より葬具師となりさらに人形師となった。佐兵衛は罪(何の罪か不明)を得て国払いになり讃岐に追われていたが、こっそり帰国して人形の制作を再開した。

●息子人形忠の銘でも製作
 帰国以後は自分の名前の使用をはばかり、自分の制作した人形は、無銘または人形忠と署名をして世に作品を送り出している。故に人形忠の頭には佐兵衛の制作した頭が多数混入していると考えなければならない。人形忠の生年月日より考えると、彼は赤ん坊の時代より(佐兵衛死亡の時人形忠は12歳)人形を制作していた事になる。(限定版「阿波の木偶」より)

(『松茂町歴史民俗資料館・人形浄瑠璃芝居資料館 図録 ―人形浄瑠璃関係資料―』の中西仁智雄氏の解説を一部修正して紹介。)
 
初代 巳之助
 大江美之助とも言う。大黒屋といい、鳴門市大津町大代に住み、鬼瓦師または玩具屋から人形師になったと言われている。かさね口がタテに動くのは、この人が発明した。作品は少なく、殆ど残っていない。
 
大江常右衛門
 徳島市国府町和田に生まれ、大江または原の姓を用いた。作品には大江常と書いたものが1個あるが、息子の順右衛門の作品と共に、「大江順」を銘した。あまり良い作品は無いと言われている。
 
大江順
大江順 作
世話寄年頭(合邦) 16.5cm
 常右衛門の子で、順右衛門と称していた。徳島市国府町和田に住して、父と共に人形を制作していたが、後に大阪文楽座の人形師となり、大江順栄として明治42年(1909)1月2日の番付より明治42年5月16日の番付まで4回記載されている。以後、淡路に移り大江順栄と称し、明治45年(1912)淡路にて死亡。淡路島三原郡三原町市村に墓所がある。

(『松茂町歴史民俗資料館・人形浄瑠璃芝居資料館 図録 ―人形浄瑠璃関係資料―』の中西仁智雄氏の解説を一部修正して紹介。)
 
原田増太
 鳴門市大津町矢倉に住み、張子玩具を生業にしていたと言われている。明治14年(1885)作のものが香川県で発見されている。その頭は写楽の版画の役者絵に似た面白い顔をしている。生没年月日等もわからない。
 
人形富
人形富 作
娘頭(お染) 11.5cm
●天狗久の師匠
 徳島市国府町和田に住し、本名は川島正富、通称は川島富五郎といい若松屋と号した。文化12年(1815)11月10日、同町田蒔貞右衛門の4子に生れ、明治27年(1894)8月18日79歳で死亡した。天狗久の師匠である。若年にて江戸に上り人形頭の彫りを習得し、次いで京に滞在して御所人形の塗りを研究した。この間約10年に及び、後に和田に帰り、頭の動きに鯨の歯を使用するなど、彼独自の人形の制作を始めたといわれている。彼の門下から、人形忠、大江順楽、初代天狗久、天狗弁などの名工が出た。

●京の御所人形の塗りを阿波人形に導入
 阿波人形が文楽人形の塗りに比して非常に美しい色と艶を誇っているのは、人形富が京の御所人形の塗りを阿波人形に導入した事によるもので、阿波人形の美しい塗りはこの人に始まるのである。
 彼の塗りは伏見人形の塗りを導入したためだという説がある。伏見人形の全盛は文化文政であり、人形富も江戸に上り下りした時期に興味を抱いたこともあろう。しかし、その塗りは胡粉でざっと全身の地塗りをした後、泥絵具に膠を混ぜてそれぞれ着色するといった極めて単純なもので、むしろその泥臭さに特徴がある。
 したがって、阿波人形の塗りとはおよそ縁遠いものがある。この事実より考え、人形富が塗りについて修業したのは伏見人形ではなく、塗りの美しい、素晴らしい光沢のある京の御所人形である事は間違いない。
 
<参考資料>御所人形
※艶やかな塗りによる仕上げ
 
<参考資料>伏見人形
※表面の仕上げ処理はつや消し
 
●型通りで細かい技術が特徴
 極めて口数の少ない固苦しい人で、几帳面に技の狂わない様に作る事では非常に勝れていた。型通りで細かい技術は上手であった。特に彼のツカミ手は阿波人形師の作品の内で一番使い易いと人形遣い達に言われてる。
 しかし、その為か表情に勢いがなかったとも言われているが、娘頭には実に可愛いよい頭がある。
 彼の晩年は、人形の頭の大型化が盛んになったが、彼は決して大きな頭は制作せず従来の大きさで押し通した。事実大きな頭は発見されていない。
(『松茂町歴史民俗資料館・人形浄瑠璃芝居資料館 図録 ―人形浄瑠璃関係資料―』の中西仁智雄氏の解説を一部修正して紹介。)


★『新版歌祭文』お染・久松
 写真娘頭「お染」は、「野崎村」お染・久松で有名な『新版歌祭文』(近松半二・安永9年<1780>初演)にちなむ。お染久松の心中を扱った浄瑠璃はそれ以前にもあるが、「野崎村」の場面は近松半二の創作で華やかな舞台演出は大変な人気がある。
 早春の野崎村。奉公先の油屋の娘お染と恋仲になった丁稚久松は、金を盗んだ疑いをかけられ養父久作の許にもどってくる。久作は娘おみつと祝言させるといい、おみつは喜ぶ。そこへお染が追いかけてくる。おみつは嫉妬するが、お染久松の心中の覚悟を見抜く。そして、おみつは、祝言の綿帽子姿で現れるも、その帽子を取ると髪をばっさり切った尼姿になっていた。華やかな三味線の連れ弾きにのせて、お染・久松が別れ別れに退場するところで締めくくられる。
 
二代 面光義光
二代面光義光 作
十郎兵衛頭
(明治初年作 内に焼印あり)

 面光は伊予の人形師で初代以降、5代の継承がある。初代面光は面師であったが、二代面光義光は人形浄瑠璃芝居にもちいられる木偶制作に情熱を捧げた。
 松山市出身で天保2年(1831)生まれ、明治23年(1890)没。59歳。
 人形の持つ宿命を頭に強く持って制作したため、非常に個性の強い名作が多いが、現存するものは極めて少なく愛媛県内においてもほとんど見かけない。
 この十郎兵衛も阿波の人形師には見られない造形にて、十郎兵衛の気質を余すところなく表現した傑作である。

(『松茂町歴史民俗資料館・人形浄瑠璃芝居資料館 図録 ―人形浄瑠璃関係資料―』の中西仁智雄氏の解説に一部修正)

 
人形忠(デコ忠)

 本名清水忠三郎。天保11年(1840)2月清水佐兵衛の長男として、徳島市国府町南岩延に生まれた。屋号は福屋。大江忠二郎、横山忠二郎、清二郎ともいい、佐兵衛と共に和田に移り制作した。明治45年(1912)6月73歳で死去したが、天真爛漫、奇言奇行逸話に富んだ人で、仕事は気が散るからと言って、専ら夜中過ぎてから励んだという。
 「頭を彫るには人相骨格を知らないと彫れるものではない」と、自分の人形頭には一つの見識を持っていた。また家の看板に「人相見料1円」「驚く者は入るべからず」と掲げて、人相も見ていた。晩年は能面や狂言面と共に、大黒や恵比須の像を彫り、あまり人形は作らなかったと言う。
 人形忠が作った頭は、阿波や淡路の人形座にあるのは勿論、徳島県郷土文化会館にも4個、天理参考館に12個。贈答品にしたものも全国的に散在しており、県の有形文化財に14個の頭が指定されている。

(徳島県郷土文化会館民俗文化財編集委員会『民俗文化財集第13集 阿波の木偶』平成4年3月31日発行 p.p.203-204)

 
人形友
人形友 作
世話女房頭(おさん)
銘阿州和田人形忠伜友治作 
明治十四年巳四月 六十二歳
●後に愛媛県宇和島に移り住む
 人形忠の長男で友三と言った。安政7年(1860)徳島県国府町和田の生まれ。大正11(1922)年2月、64歳で死去。
人形友として初め徳島県国府町和田で制作していたが、後に愛媛県宇和島に移り住んだ。故に作品は徳島県にも少数見うけられるが、愛媛県、特に宇和島付近に多く発見されている。即ち愛媛県大谷文楽(5ケ)菅原座(3ケ)朝日文楽(2ケ)等である。

(『松茂町歴史民俗資料館・人形浄瑠璃芝居資料館 図録 ―人形浄瑠璃関係資料―』の中西仁智雄氏の解説に一部修正して紹介)
 
人形泉
●北海道で仏師として有名に
 本名清水泉次郎。人形忠の2男、父兄と共に国府町和田で、人形制作を行い、頭には人形忠、忠泉と銘を入れている。北海道に移り、仏師として彼地で有名になったが、死亡年月日等不明。作品は阿波に1個、淡路に1個残っている。
 
来太
●のちに禅宗僧となる
 人形忠の3男で、人形の制作は父のもとで行ったが、後に上阪、南天棒の弟子となり、天然と称して禅宗の門に入った。遠く中国の五竜山で修行し、戦後、和田に帰ったが昭和24年(1949)2月、阿波郡林町で客死した。来太の作った頭の秀作は、徳島市内の料亭にあると言われている。
 
天狗久
天狗久 作
八百屋お七 11.5cm
●小説・映画に登場し、阿波人形師で最も有名
 宇野千代の小説『人形師天狗屋久吉』を始め、文化映画に2度出演するなど、阿波の人形師としては、最も良く知られた人である。
 安政5年(1858)5月21日、徳島市国府町中の笠井岩蔵の3男に生まれた。後に国府町和田の吉岡宇太郎の養子となり、吉岡久吉と称した。16歳で人形富の弟子となり26歳で独立した。屋号は天狗屋といい、看板には「世界一」と書き、自作の天狗の面を張り付けてあった。昭和18年(1943)12月、86歳で死去。

●硝子目の使用と、人形の大型化
 人形の目に硝子目を使用したのは阿波では彼が初めてで、明治20年(1887)頃からだとされている。始めは大阪の眼鏡屋に注文していたが、後に徳鳥市の硝子工場に依頼し、常に沢山の硝子の目玉を用意していたようである。
 ちなみに、最初に玉眼を使用したのは人形細工師亀屋利助で、宝暦7年(1757)12月豊竹座の「祇園祭礼信長記」に若竹東次郎の思い付きで、此下東吉の人形の頭に使われた。
 人形の大型化は彼が始めたもので、硝子目の使用と相前後している。
 時代と共に大型化し、明治末より大正に入っては、大人の頭と同じ位の大きさのものも作っている。頭の大型化は一時一般の好評を博したが、頭の大型化と同時に衣装も大型化したために、人形遣いはその重量に堪え兼ねて、人形の遣い方が自然に大まかに且つ粗雑となり、即ち人形浄瑠璃芝居の本命とする喜怒哀楽の表現が著しくそこなわれた。また一方、人形全体の重量を軽くするために、衣類を短かくしたために、人形全体の姿は所謂6頭身となり、優美さを失い観客に何となくグロテスクな感じを与えた。
 大型化したため、頭の作柄も締りの無いものが多く、大型化された頭には余り名品は見当らない。

●文楽人形遣いからは敬遠される
 彼は阿波人形浄瑠璃芝居の最盛期に生を受けたため、極めて多数の人形の制作修理を行った。彼は、彼の弟子として彼のもとに居た時代の天狗弁、息子の天狗要、孫の天狗治の作品にちょっと手を加えて天狗久個人の銘を打って発表している。そのため一個人の作品としては、極めて多数の作品を世に送り出した事になっている。
 且つまた、様々な努力により新趣向を凝らし彼の名声ははなはだ高いものとなった。しかし、文楽の人形遣い特に文五郎師を始めとする文楽系の多くの人々は天狗久の作品は余りにも写実的でかつ鋭ど過ぎるので、文楽人形としては不向きであるとして全く使用されなかった。
 しかし、彼はまた日露戦争に関する新作物「国の華大和桜木」(大正2)で、乃木将軍と静子夫人のような新しい一役頭を手がけるなど、中央でも十分評価された。

●「日下海山」「天狗屋久義」とも銘打つ
 人形富のもとで修業中の作品には、「日下海山」と銘のあるものが多数発見されている。この時代の作は人形富の指導下にあったため、富の作風によく似ていて柔かな、静かな、美しい作品が多い。
 また後年「天狗屋久義」と在銘したものも多数発見されている。天狗久が態々久義と銘打ったのは、久吉をヒサキチと読まれるのを心秘かに不満とし、ヒサヨシと読み且つ言ってもらいたいために銘したものでないかと思う。
 宮尾しげを氏はその著書「図説文楽人形」(中林出版、1967年)で、淡路阿波の人形製作者は必ずと言ってよいほど大阪の人形芝居に入ってかしらの製作や塗りかえの仕事をしたものである。それを最後迄しなかったのは天狗久だけだと書かれているが、阿波の多数の人形師で文楽に関係した過去のあるものは、大江順と天狗弁だけであって、天狗久は勿論、他の人形師達も少しも文楽に関係した経歴のない事を念のために記載して置きたい。

(『松茂町歴史民俗資料館・人形浄瑠璃芝居資料館 図録 ―人形浄瑠璃関係資料―』の中西仁智雄氏の解説に一部修正)
 
天狗弁

天狗弁 作
傾世頭(タ霧) 14.5cm

 本名、近藤弁吉。初代天狗久の甥で、明治6年(1873)12月25日、徳島県名西郡入田村矢野奥谷にて板橋浅吉の2男に生まれた。14歳にて天狗久の門に入り、24歳で独立して天狗弁と名のった。昭和44年3月死去した。94歳。

●文楽座の人形細工師として活躍
 大正元年(1912)9月20日より大正3年(1914)10月31日まで大阪近松座の座付人形師となり、大正13年(1924)4月1日より昭和3年(1928)末まで文楽座の人形細工師としてその番付に名を連ねている。
 大正15(1926)年文楽座焼失により焼けた人形の補充と修理に当たったため、彼はいかなる種類の頭も一応制作出来る力を持つにいたった。代表的作品は角目、別師、フケ女、娘等であるが、特に娘の頭には秀れた作品がある。大阪方面にて有名で、当時文楽より有名人に贈った人形は総て彼の作品であったとの事である。

●徳島県で初めての人間文化財
昭和29年(1954)徳島県教育委員会より文化功労者として表彰され、昭和37年(1962)3月(時に88歳)徳島県で初めて人間文化財に指定された。

(『松茂町歴史民俗資料館・人形浄瑠璃芝居資料館 図録 ―人形浄瑠璃関係資料―』の中西仁智雄氏の解説を一部修正して紹介。)
 
天狗要(2世天狗久)

 本名吉岡要。明治13年(1880)12月、徳島市国府町の黒田家に生まれ、初代天狗久の長女しげりの養子となり、大正4年(1915)7月36歳で没した。若くして死亡したため、制作する期間が短かったばかりでなく、養父天狗久と共に制作し、要の作品に天狗久が手を加え、天狗久の名で世に出したと言われている。そのため天狗要の銘がある作品は少ない。
 淡路の人形座で使っていた要の頭が、大阪市立博物館(現:大阪歴史博物館)に4個入っているが、そのほか2個程しか確認できていない。自分の個性を出し切れないまま早世したため、その作品はどことなく弱々しく寂しい感がする。

(徳島県郷土文化会館民俗文化財編集委員会『民俗文化財集第13集 阿波の木偶』平成4年3月31日発行p.205)

 
天狗治(3世天狗久)
 本名吉岡治。明治44年(1911)12月天狗要の2男に生まれ、少年時代から初代天狗久のもとで修行し、天狗久の技法をあますことなく受け継いだ人と言われている。
 生涯に彫った人形は100個を越え、女形の頭では初代以上であった。しかし「これが私の木偶だよ」といったのは、死亡する5年前に作った、加藤正清の頭だけであった。いつも祖父の作品と比較し、自分に満足することなく、貧乏に耐えながら1個1個彫り続け、優秀な作品を残した。昭和53年(1978)10月66歳で死去。
 治の母しげりは、古い頭の鑑定から塗り、衣装の着付や髷付まで、他に比べる人はいないと言われる程、高い技術の持ち主であった。

(徳島県郷土文化会館民俗文化財編集委員会『民俗文化財集第13集 阿波の木偶』平成4年3月31日発行 p.205)
 
2代巳之助 栄吉
 本名大江栄吉。明治時代の人であるが、舞台の大道具、小道具の製作が主で、人形はあまり作っていない。栄吉の人形は心串の肩板を入れる角度に特徴があり。昭和3年(1928)8月に死亡した。

徳島県郷土文化会館民俗文化財編集委員会編著『民俗文化財集第13集 阿波の木偶』(徳島県郷土文化会館、1992年3月31日発行、 p.202−205)
 
3代巳之助 栄松
 3代巳之助は生前一通り、どんな頭でも製作したと言われている。残っている作品は比較的少なく、あまり良い評価はされていない。昭和30年(1955)1月に死去。

徳島県郷土文化会館民俗文化財編集委員会編著『民俗文化財集第13集 阿波の木偶』(徳島県郷土文化会館、1992年3月31日発行、 p.202−205)
 
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