松茂町も浄瑠璃(義太夫)が盛んな町として知られていた。幕末・明治に活躍した豊竹土佐太夫、緑
太夫や、明治期に大阪の文楽座に入った桜井賢一など、著名な太夫をたくさん輩出した。三味線でも鶴澤権平が知られている。 ここでは、戦後に松茂町広島に建設された劇場「松茂座」での人形芝居興行の写真を紹介する。 |
松茂座の外観 |
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満員の松茂座 | 松茂座で上演される『一の谷嫩軍記』 | ||
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昭和24年(1949)に、旧海軍
兵舎の払い下げをうけて建設された松茂座は、現在の松茂農協の場所にあり、劇
場兼映画館として松茂の人々に親しまれた。 写真(赤沢修二氏提供)は、昭和30年(1955)ごろに行われた人形浄瑠璃芝居の様子で、屋外に太夫の名を記した幟 が林立し、場内は満員の盛況だった。人形遣いは町外から人形一座を招いたが、浄瑠璃(義太夫)を語る太夫と三味線は、いずれも松茂の人たちで、日ごろ稽古 を重ねた自慢の芸を披露した。 娯楽の少なかった当時にあっては、人形芝居や映画を上演する松茂座は、人々の憩いの場であった。しかし、昭和34年 (1959)のテレビ放送開始(NHK徳島・四国放送)にともない観客が激減し、ほどなく松茂座は閉館に至った。 |
松茂町の豆義太夫 | |
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昭和30年(1955)頃に、豆義太夫として活躍した笹木野の豊成湖修君(本名 赤沢修二)の舞台の様子。浄瑠璃(義太夫)は、幼いころより師匠について
稽古を重ねるのが一番の早道だった。 写真の湖修君は、祖父の豊成尾弘(本名 基弘)と祖母のワキエさんに浄瑠璃を習い、5歳で「阿波浄瑠璃競演大会」(昭 和30年、徳島市)の初舞台を踏んだ。大会では、大阪の文楽座から招いた審査員をうならせ、一躍、豆義太夫として人気を博した(昭和32年6月2日「徳島 新聞」朝刊より)。 また、広島の三木早苗さんも豆義太夫として活躍した。三木さんは、現在でも松茂町の「ふれあい座」の太夫をつとめ、素 晴らしい芸を披露している。 当時、浄瑠璃(義太夫)・三味線は、老若男女にかかわらない町民共通の楽しみであったのだ。 |
松茂は、その昔、浄瑠璃(義太夫)が盛んな町として知られ、多くの著名な太夫・三味線を輩出した。 太夫では、幕末・明治に活躍した広島の豊竹土佐太夫と、笹木野の豊竹緑太夫が有名。土佐太夫は本名を細川筆 太夫といい、 時代物(合戦などの歴史上の事件をテーマにした物語)を得意とし、多くの弟子に恵まれた。墓は広島の共同墓地にあり、弟子たちによって建てられた。 緑太夫は本名を後藤只蔵といい、芸の道ひとすじに生きた名人で、県内はもとより、大阪へも巡業に出かけ た。ひいきの観 客からは「緑(みどり)」と呼ばれて、人気を博した。 三味線では、淡路出身で長原に住んだ鶴澤権平が知られている。権平は、本名を上村助太郎といい、戦前から 戦後にかけ て、多くの弟子の指導にあたった。 |
展示中の太夫墓碑の写真 (左:豊竹土佐太夫/右:豊竹緑太夫) |
(C)2003年 〜2009年、松茂町歴史民俗資料館・人形浄瑠璃芝居資料館 |
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