ミニ企 画展 示 松茂の浄瑠璃と 人形芝居

当館 玄関ロビーで、ただ今、展示中!

 ※ 2009年5月13日<水>から展示再開しました。ただし、今回、「豆義太夫がんばる」のコー ナーは休止しています。


 松茂町も浄瑠璃(義太夫)が盛んな町として知られていた。幕末・明治に活躍した豊竹土佐太夫、緑 太夫や、明治期に大阪の文楽座に入った桜井賢一など、著名な太夫をたくさん輩出した。三味線でも鶴澤権平が知られている。
 ここでは、戦後に松茂町広島に建設された劇場「松茂座」での人形芝居興行の写真を紹介する。

松茂座の外観
 映画館兼人形芝居小屋として戦後に建てられた「松茂座」。写真は、ちょうど人形浄瑠璃芝居が行われている様子を撮影し ている。幟には全て「豊成尾弘丈江」と、地元・義太夫の名が書かれている。



●松茂座は大盛 況
 
満員の松茂座 松茂座で上演される『一の谷嫩軍記』
 立錐の余地もない松茂座内部。舞台のかぶりつきには、大勢の子供と数人の老人が混じっている。これらの人は、何か理由 があってここに座っているのだろうか。現在の舞台構造からは想像もできないほど舞台に接近している。いずれにしろ、文字通り老若男女すべての人の娯楽で あったことがよくわかる。
 『一の谷嫩軍記』は宝暦元年(1751)初演の並木宗輔の作品。特にその3段目「熊谷陣屋の段」が非常に人気があり、 徳島でもよく上演される。源平の一の谷の合戦で、熊谷直実(くまがやなおざね)が平敦盛(たいらのあつもり)を討って出家したという伝承を踏まえながら、 しかし、直実が討ち取ったのは実は身代わりにたてた我が子小次郎であったという筋書き。敦盛と小次郎の二人の母親を配することで、忠義のために我が子を殺 さねばならぬ悲劇を印象づける。

 昭和24年(1949)に、旧海軍 兵舎の払い下げをうけて建設された松茂座は、現在の松茂農協の場所にあり、劇 場兼映画館として松茂の人々に親しまれた。
 写真(赤沢修二氏提供)は、昭和30年(1955)ごろに行われた人形浄瑠璃芝居の様子で、屋外に太夫の名を記した幟 が林立し、場内は満員の盛況だった。人形遣いは町外から人形一座を招いたが、浄瑠璃(義太夫)を語る太夫と三味線は、いずれも松茂の人たちで、日ごろ稽古 を重ねた自慢の芸を披露した。
 娯楽の少なかった当時にあっては、人形芝居や映画を上演する松茂座は、人々の憩いの場であった。しかし、昭和34年 (1959)のテレビ放送開始(NHK徳島・四国放送)にともない観客が激減し、ほどなく松茂座は閉館に至った。



●豆義太夫がん ばる
 
松茂町の豆義太夫
 昭和30年頃に活躍した豆義太夫 豊成湖修君。徳島新聞に取り上げられるほどの人気を博した。

  昭和30年(1955)頃に、豆義太夫として活躍した笹木野の豊成湖修君(本名 赤沢修二)の舞台の様子。浄瑠璃(義太夫)は、幼いころより師匠について 稽古を重ねるのが一番の早道だった。
 写真の湖修君は、祖父の豊成尾弘(本名 基弘)と祖母のワキエさんに浄瑠璃を習い、5歳で「阿波浄瑠璃競演大会」(昭 和30年、徳島市)の初舞台を踏んだ。大会では、大阪の文楽座から招いた審査員をうならせ、一躍、豆義太夫として人気を博した(昭和32年6月2日「徳島 新聞」朝刊より)。
 また、広島の三木早苗さんも豆義太夫として活躍した。三木さんは、現在でも松茂町の「ふれあい座」の太夫をつとめ、素 晴らしい芸を披露している。
 当時、浄瑠璃(義太夫)・三味線は、老若男女にかかわらない町民共通の楽しみであったのだ。



●活躍した義太 夫・三味線たち
 
  松茂は、その昔、浄瑠璃(義太夫)が盛んな町として知られ、多くの著名な太夫・三味線を輩出した。
太夫では、幕末・明治に活躍した広島の豊竹土佐太夫と、笹木野の豊竹緑太夫が有名。土佐太夫は本名を細川筆 太夫といい、 時代物(合戦などの歴史上の事件をテーマにした物語)を得意とし、多くの弟子に恵まれた。墓は広島の共同墓地にあり、弟子たちによって建てられた。
 緑太夫は本名を後藤只蔵といい、芸の道ひとすじに生きた名人で、県内はもとより、大阪へも巡業に出かけ た。ひいきの観 客からは「緑(みどり)」と呼ばれて、人気を博した。
 三味線では、淡路出身で長原に住んだ鶴澤権平が知られている。権平は、本名を上村助太郎といい、戦前から 戦後にかけ て、多くの弟子の指導にあたった。

土佐太夫墓碑(左)・緑太夫墓碑(右)の写真
展示中の太夫墓碑の写真
(左:豊竹土佐太夫/右:豊竹緑太夫)


(C)2003年 〜2009年、松茂町歴史民俗資料館・人形浄瑠璃芝居資料館
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