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「人形の種類」
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駒蔵
    
万芳
    
利貞
    

鳴州
        
卯之助
      
近蔵
     
源兵衛
      
善平
      

福山
佐兵衛
      
初代
巳之助
      
大江
常右衛門
      

大江順
     
原田増太
     
阿波人形の
艶の良さは
この人から

人形富
     

二代 面光義光
       
人形忠
(デコ忠)
        

人形友
      
人形泉
     
来太
     
阿波人形を
大型化
した人
天狗久
     

天狗弁
    
天狗要
(2世
天狗久)
      
天狗治
(3世
天狗久)
         
2代
巳之助
栄吉
       
3代
巳之助
栄松
    

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■人形富■
人形富作 娘頭(お染) 11.5cm
●天狗久の師匠
 徳島市国府町和田に住し、本名は川島正富、通称は川島富五郎といい若松屋と号した。文化12(1815)年11月10日、同町田蒔貞右衛門の4子に生れ明治27(1894)年8月18日79歳で死亡した。天狗久の師匠である。若年にて江戸に上り人形頭の彫りを習得し、次いで京に滞在して御所人形の塗りを研究した。この間約10年に及ぴ、後和田に帰り、頭の動きに鯨の歯を使用するなど、彼独自の人形の製作を始めたといわれている。彼の門下から、人形忠、大江順楽、初代天狗久、天狗弁などの名工が出た。
●京の御所人形の塗りを阿波人形に導入
 阿波人形が文楽人形の塗りに比して非常に美しい色と艶を誇っているのは、人形富が京の御所人形の塗りを阿波人形に導入した事によるもので、阿波人形の美しい塗りはこの人に始まるのである。
 彼の塗りは伏見人形の塗りを導入したためだという説がある。伏見人形の全盛は文化文政であり、人形富も江戸に上り下りした時期に興味を抱いたこともあろう。しかし、その塗りは胡粉でざっと全身の地塗りをした後、泥絵具に膠を混ぜてそれぞれ着色するといった極めて単純なもので、むしろその泥臭さに特徴がある。
 したがって、阿波人形の塗りとはおよそ縁遠いものがある。この事実より考え、人形富が塗りについて修業したのは伏見人形ではなく、塗りの美しい、素晴らしい光沢のある京の御所人形である事は間違いない。
<参考資料>御所人形  ※艶やかな塗りによる仕上げ
   
<参考資料>伏見人形  ※表面の仕上げ処理はつや消し
●型通りで細かい技術が特徴
 極めて口数の少ない固苦しい人で、几帳面に技の狂わない様に作る事では非常に勝れていた。型通りで細かい技術は上手であった。特に彼のツカミ手は阿波人形師の作品の内で一番使い易いと人形遣い達に言われてる。
 しかし、その為か表情に勢いがなかったとも言われているが、娘頭には実に可愛いいよい頭がある。
 彼の晩年は、人形の頭の大型化が盛んになったが、彼は決して大きな頭は製作せず従来の大きさで押し通した。事実大きな頭は発見されていない。
 (『松茂町歴史民俗資料館・人形浄瑠璃芝居資料館 図録 ―人形浄瑠璃関係資料―』の中西仁智雄氏の解説を一部修正して紹介。)



 
●『新版歌祭文』お染・久松
 写真娘頭「お染」は、「野崎村」お染・久松で有名な『新版歌祭文』(近松半二・安永9年(1780)初演)にちなむ。お染久松の心中を扱った浄瑠璃はそれ以前にもあるが「野崎村」の場面は近松半二の創作で華やかな舞台演出は大変な人気がある。
 早春の野崎村。奉公先の油屋の娘お染と恋仲になった丁稚久松は、金を盗んだ疑いをかけられ養父久作の許にもどってくる。久作は娘おみつと祝言させるといい、おみつは喜ぶ。そこへお染が追いかけてくる。おみつは嫉妬するが、お染久松の心中の覚悟を見抜く。そして、おみつは、祝言の綿帽子姿で現れるも、その帽子を取ると髪をばっさり切った尼姿になっていた。華やかな三味線の連れ弾きにのせてお染・久松が別れ別れに退場するところで締めくくられる。

 

 
 
 

 
 
 
 

 

   


   
(C)2003年 松茂町歴史民俗資料館・人形浄瑠璃芝居資料館