■天狗久■
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天狗久
八百屋お七 11.5cm |
●小説・映画に登場し、阿波人形師で最も有名 |
宇野千代の小説『人形師天狗屋久吉』を始め、文化映画に2度出演するなど、阿波の人形師としては、最も良く知られた人である。
安政5(1858)年21日徳島市国府町中村の笠井岩蔵の3男に生れた。後国府町和田の吉岡宇太郎の養子となり、吉岡久吉と称した。16歳で人形富の弟子となり26歳で独立した。屋号は天狗屋といい、看板には世界一と書き、自作の天狗の面を張り付けてあった。昭和18(1943)年12月、86歳で死亡。
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●硝子目の使用と、人形の大型化 |
人形の眼に硝子目を使用したのは阿波では彼が初めてで、明治20(1887)年頃からだとされている。始めは大阪の眼鏡屋に注文していたが、後に徳鳥市の硝子工場に依頼し、常に沢山の硝子の目玉を用意していたようである。
ちなみに、最初に玉眼を使用したのは人形細工師亀屋利助で宝暦7(1757)年12月豊竹座の「祇園祭礼信長記」に若竹東次郎の思い付きで、此下東吉の人形の頭に使われた。
人形の大型化は彼が始めたもので硝子目の使用と相前後している。
時代と共に大型化し明治末より大正に入っては、大人の頭と同じ位の大きさのものも作っている。頭の大型化は一時一般の好評を博したが、頭の大型化と同時に衣裳も大型化したために人形遣いはその重量に堪え兼ねて人形の遣い方が自然に大まかに且つ粗雑となり、即ち人形浄瑠璃芝居の本命とする喜怒哀楽の表現が著しくそこなわれ、また一方人形全体の重量を軽くするために衣類を短かくしたために、人形全体の姿は所謂6頭身となり、優美さを失い観客に何となくグロテスクな感じを与えた。
大型化したため、頭の作柄も締りの無いものが多く、大型化された頭には余り名品は見当らない。 |
●文楽人形遣いからは敬遠される |
彼は阿波人形浄瑠璃芝居の最盛期に生を受けたため、極めて多数の人形の製作修理を行った。彼は、彼の弟子として彼のもとに居た時代の天狗弁、息子の天狗要、孫の天狗治の作品にちょっと手を加えて天狗久個人の銘を打って発表している。そのため一個人の作品としては極めて多数の作品を世に送り出した事になっている。
且つまた、様々な努力により新趣向を凝らし彼の名声ははなはだ高いものとなった。しかし、文楽の人形遣い特に文五郎師を始めとする文楽系の多くの人々は天狗久の作品は余りにも写実的でかつ鋭ど過ぎるので、文楽人形としては不向きであるとして全く使用されなかった。
しかし、彼はまた日露戦争に関する新作物「国び華大和桜木」(大正2)で、乃木将軍と静子夫人のような新しい一役頭を手がけるなど、中央でも十分評価された。
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●「日下海山」「天狗屋久義」とも銘打つ |
人形富のもとで修業中の作品には、日下海山と銘のあるものが多数発見されている。この時代の作は人形富の指導下にあったため、富の作風によく似ていて柔かな、静かな、美しい作品が多い。
また後年屡々天狗屋久義と在銘したものも多数発見されている。天狗久が態々久義と銘打ったのは久吉をヒサキチと読まれるのを心秘かに不満とし、ヒサヨシと読み且つ言ってもらいたいために銘したものでないかと思う。 |
宮尾しげを氏はその著書「図説文楽人形」(中林出版、1967年)で、淡路阿波の人形製作者は必ずと言ってよいほど大阪の人形芝居に入ってかしらの製作や塗りかえの仕事をしたものである。それを最後迄しなかったのは天狗久だけだと書かれているが、阿波の多数の人形師で文楽に関係した過去のあるものは、大江順と天狗弁だけであって、天狗久は勿論、他の人形師達も少しも文楽に関係した経歴のない事を念のために記載して置きたい。
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(『松茂町歴史民俗資料館・人形浄瑠璃芝居資料館 図録 ―人形浄瑠璃関係資料―』の中西仁智雄氏の解説に一部修正) |