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万 芳
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享保(1716〜36)のころの人。板野郡堀江村で製作していた。在銘のものは1個しか発見されていない。それを見ると口の開き具合などに苦心のあとがみられる。作り方を見ると明和・安永年間(1764〜1781)ころでないかと言う説もある。 |
利 貞
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享保(1716〜36)のころの人で、住所はわからない。署名と製作年月の入った頭が1個発見され、天狗久が修理したと言われているが、現在その頭の所在は不明である。古くても宝暦年間(1751〜64)のころと言う人もある。 |
卯之助
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鳴州の甥。寛政・享和年間(1789〜1804)のころの人。鳴州に従い牢の浜で製作していたとも。徳島市古物町で製作していたが、30余歳で没したとも言われている。
作品は悪婆が1個発見されたとして、久米惣七氏の本(『阿波の人形師と人形芝居総覧』)に写真が載っているが、角目(口あき、4寸4分)1個という記録もある。 |
近 蔵
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鳴州の甥で、天明年間(1781〜89)のころの人と言われているが、証拠はない。男頭が1個発見されているだけである。初代天狗久はその作品を修理し、非常に良くできた頭だとほめていた。 |
源兵衛
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文政年間(1818〜30)のころの人で、徳島市佐古大谷で製作していた。佐兵衛の師匠で作品は天理参考館に武者頭がある。目と眉、口の動く三曲頭である。県指定の有形文化財の中にも、源兵衛の作と言われる頭があるが、それに対しては異説が出ており、今後の研究が待たれる。 |
善 平
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善兵衛とも書き、文政(1818〜30)のころの人で、徳島市蔵本町で製作していた。眼の動く悪婆と娘頭1個が発見されている。天狗久もよい頭があるとほめていたと言われている。 |
初代 巳之助
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大江美之助とも言う。大黒屋といい、鳴門市大津町大代に住み、鬼瓦師からまたは玩具屋から人形師になつたと言われている。かさね口がタテに動くのは、この人が発明した。作品は少なく、殆ど残っていない。 |
大江常右衛門
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徳島市国府町和田に生まれ、大江または原の姓を用いた。作品には大江常と書いたものが1個あるが、息子の順右衛門の作品と共に、「大江順」を銘した。あまり良い作品は無いと言われている。 |
原田増太
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鳴門市大津町矢倉に住み、張子玩具を生業にしていたと言われている。明治14年(1885)作のものが香川県で発見されている。その頭は写楽の版画の役者絵に似た面白い顔をしている。死亡年月日等もわからない。 |
人形泉
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●北海道で仏師として有名に |
本名清水泉次郎。人形忠の2男、父兄と共に国府町和田で、人形製作を行い、頭には人形忠、忠泉と銘を入れている。北海道に移り、仏師として彼地で有名になったが、死亡年月日等不明。作品は阿波に1個、淡路に1個残っている。 |
来 太
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●のちに禅宗僧となる |
人形忠の3男で、人形の製作は父のもとで行ったが、後に上阪、南天棒の弟子となり、天然と称して禅宗の門に入った。遠く中国の五竜山で修行し、戦後和田に帰ったが昭和24年(1949)2月、阿波郡林町で客死した。来太の作った頭の秀作は、徳島市内の料亭にあると言われている。 |
2代巳之助 栄吉
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本名大江栄吉。明治時代の人であるが、舞台の大道具、小道具の製作が主で、人形はあまり作っていない。栄吉の人形は心串の肩板を入れる角度に特徴があり、耳たぶの直線に下っている頭が多い。昭和3年(1928)8月に死亡した。 |
3代巳之助 栄松
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3代巳之助は生前一通り、どんな頭でも製作したと言われている。残っている作品は比較的少なく、あまり良い評価はされていない。昭和30年(1955)1月に死亡。 |
このページの出典はすべて
徳島県郷土文化会館民俗文化財編集委員会編著『民俗文化財集第13集 阿波の木偶』(徳島県郷土文化会館、1992年3月31日発行、
p.p.202−205) |
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